朝、スマートフォンを開く指が止まる。けれど、開かずにはいられない。

昨夜のうちに海外市場が急落したというニュースが流れていた。恐る恐る証券口座を開くと、保有資産の評価額が一日で大きく削られている。赤い数字が並ぶ画面を見つめながら、胸の奥がざわつく。心臓の鼓動が少し速くなり、「今すぐ売らないと、もっと減ってしまう」という声が頭の中で大きくなっていく——。

この場面に、覚えがある方は多いのではないでしょうか。そして多くの場合、私たちはその声に従ってしまいます。底値で売ってしまい、しばらくして市場が回復したあとに「あのとき売らなければ」と後悔する。これは投資家にとって、もっとも痛い記憶のひとつです。

本当に、その「今すぐ売りたい」という衝動は、あなたの冷静な判断なのでしょうか。

バフェットは暴落の恐怖をどう言葉にしたか

暴落のさなかにある投資家の心に、長く効きつづけている言葉があります。ウォーレン・バフェットの、あの一節です。

“Be fearful when others are greedy, and greedy when others are fearful.”

他人が貪欲になっているときには恐怖を抱き、他人が恐れているときにこそ貪欲であれ。

短い対句のなかに、相場で生き残るための核心が凝縮されています。みんなが熱狂して買いに走るときこそ、足元の危うさを疑う。逆に、みんなが恐怖に飲まれて投げ売りするときこそ、冷静に価値を見極めて手を伸ばす。群衆の感情の波と、あえて反対方向へ体を向けるということです。

言葉そのものは、たいていの投資家が一度は耳にしたことがあるでしょう。けれど、その言葉が生まれた状況まで知っている人は、意外と少ないのです。

この言葉が生まれた「2008年の地獄」

この名言が広く知られるようになった決定的な場面は、2008年10月のことでした。

リーマン・ブラザーズが破綻し、世界の金融システムが音を立てて崩れていた時期です。株価は連日のように急落し、市場はまさに総悲観のただなかにありました。多くの投資家が資産を現金に逃がそうと売りを急ぎ、「資本主義が終わる」とまで語られた、文字どおりの恐怖の最中です。

そのさなか、バフェットはニューヨーク・タイムズに一本の論説を寄稿します。タイトルは「Buy American. I Am.(米国株を買おう。私は買っている)」。彼はそこで、自分自身の口座で米国株を買い増していると公表しました。評論家として安全な場所から語るのではなく、自らの資金を市場に投じながら「恐怖の対極」を実践してみせたのです。

ここが、この言葉の重みの源です。バフェットは暴落の恐怖を知らなかったわけではありません。誰よりも巨大な金額が日々目減りしていく当事者でした。それでも、群衆が逃げる方向の反対へ、淡々と歩を進めた。「恐怖と貪欲」は、安全圏からの教訓ではなく、地獄の渦中で示された行動だったのです。

ちなみに彼にはもうひとつ、損失に関する有名な原則があります。「ルール1、損をするな。ルール2、ルール1を忘れるな」。一見すると暴落で買う姿勢と矛盾しそうですが、彼にとって「損」とは一時的な評価額の上下ではなく、価値の毀損された対象を高値で掴むことを指します。だからこそ、価格が暴落した優良な対象は、彼の目には「損」ではなく好機に映ったわけです。

なぜ私たちは群衆と逆に動けないのか——恐怖の正体

ここからは、臨床心理の視点で「なぜ頭ではわかっていても実行できないのか」を見ていきます。

含み損を抱えて画面を見つめているとき、あなたの脳のなかでは「闘争・逃走反応」が活性化しています。これは、危険を察知した生き物が瞬時に逃げるか戦うかを選ぶための、きわめて古い防衛システムです。本来は猛獣から命を守るための仕組みですが、現代の私たちの脳は、資産が減っていく画面の赤い数字にも、同じ「危険信号」として反応してしまうのです。

このとき、冷静な分析を司る脳の前頭前野の働きは弱まり、「とにかくこの状況から逃げろ」という衝動が前面に出ます。狼狽売りは、意志の弱さではありません。生存本能が忠実に作動した結果なのです。

加えて、人間の心には「損失回避」という強い傾向があります。同じ金額でも、得る喜びより失う痛みのほうを、私たちはおよそ二倍以上強く感じるといわれます。だから、損失を確定させてでもこれ以上の痛みから逃れたい、という力がはたらく。

さらにもう一つ、「みんなが売っている」という事実そのものが恐怖を増幅させます。集団から外れることへの不安は、これも太古から私たちに組み込まれた本能です。群衆が一斉に逃げる方向に背を向けるのは、心理的には孤独に耐えることでもあります。バフェットの言葉が「言うは易く行うは難し」なのは、まさにこの三重の心理的引力——闘争・逃走反応、損失回避、同調圧力——に逆らわなければならないからなのです。

「逆張りは難しい」とよく言われますが、それは技術の問題というより、この強烈な感情の引力に抗う心の問題なのです。なぜ自分にはできないのかと自分を責める必要はありません。多くの投資家が、同じ場所で同じ痛みを経験しています。

新NISA世代にとっての「恐怖と貪欲」

では、長期の積立を中心に投資をしている新NISA世代にとって、この言葉はどう活きるのでしょうか。

結論から言えば、積立投資はこの原則ととても相性がよいのです。毎月一定額を買い続ける積立では、価格が暴落した局面ほど、同じ金額でより多くの口数を買うことができます。つまり、暴落時に積立を止めないこと自体が、「他人が恐れているときの貪欲」を、感情を介さずに自動で実践していることになります。

問題は、その自動の仕組みを、恐怖に駆られて自分の手で止めてしまうことです。暴落のニュースに耐えきれず、積立設定を解除したり、保有分を一括で売却したりする。皮肉なことに、この原則を最も自然に実践できる立場にいる人が、恐怖に負けて最も高い代償を払ってしまうのです。

ここで大切なのは、「買い向かう勇気」を新たに振り絞ることではありません。すでに動いている良い仕組みを、恐怖で壊さないこと。それだけで、あなたは十分にバフェットの言葉を生きています。投資哲学の全体像を整理したい方は、投資の名言から学ぶ心の整え方をまとめたガイドもあわせてご覧ください。

よくある誤解——「暴落=なんでも買えばいい」ではない

ここで、ひとつ立ち止まっておきたい誤解があります。

「他人が恐れているときに貪欲に」という言葉を、「暴落したら手当たり次第に買えばいい」と受け取ってしまうことです。これは危険な読み違いです。

バフェットが買ったのは、暴落で価格は下がったが価値は残ると判断した、長期で生き残る対象でした。つまり彼の「貪欲」は、感情の興奮ではなく、冷静な価値判断に裏打ちされています。恐怖の正体を見極めないまま値下がりに飛びつくのは、群衆を別の方向に追いかけているだけで、本質的には同じ感情の奴隷です。

逆張りとは、群衆と反対をやること自体が目的なのではありません。群衆の感情に流されず、自分の判断軸を保つことが本質なのです。市場が振り子のように楽観と悲観のあいだを揺れ動く性質については、ハワード・マークスの名言「振り子」が教える相場心理が深く掘り下げています。そして、どんな局面でも揺るがない判断軸の土台となるのが、テンプルトンの名言「高い倫理観こそ投資成功の基礎」が語る、お金と人格の関係です。

「貪欲であれ」という言葉の前提には、「何が本当に価値あるものかを、恐怖のなかでも見失わない」という冷静さがある——ここを取り違えないことが肝心です。

今日からできる1つのこと——暴落の前にルールを書いておく

最後に、暴落の恐怖に飲まれないための、具体的な一歩をお伝えします。

それは、「暴落が来る前に、自分の対応を紙に書いておく」ことです。

私たちの脳は、闘争・逃走反応が起きている真っ最中には、冷静な判断ができません。だからこそ、まだ恐怖に支配されていない平常時のうちに、自分との約束を文字にしておくのです。たとえば、こんな一文で十分です。

  • 「資産が○%下がっても、積立は止めない」
  • 「暴落のニュースを見ても、その日は売買しない。最低一晩おく」
  • 「売りたくなったら、まず『これは闘争・逃走反応かもしれない』と自分に問う」

この「事前ルール化」は、心理学でいう実行意図(if-then プランニング)という手法です。「もしAが起きたら、Bをする」と前もって決めておくことで、いざその場面が来たときに、感情ではなくあらかじめ決めた行動が自動的に引き出されやすくなります。暴落の最中に勇気を絞り出すのではなく、平常時の冷静なあなたが、未来の動揺するあなたを守ってあげる——そういう仕組みです。

紙でもスマホのメモでも構いません。今日、まだ市場が静かなうちに、たった一行でいいので書いてみてください。それが、次の嵐のときにあなたを支える、いちばん確かな処方箋になります。

なお、暴落時の不安が日常生活や睡眠に強く影響している場合は、ひとりで抱え込まず、専門家に相談することも大切な選択肢です。心の健康は、資産と同じくらい守るべきものですから。

よくある質問(FAQ)

Q1. 「他人が貪欲なときに恐怖を」とはどういう意味ですか?

市場が熱狂して誰もが強気のときこそ警戒し、誰もが恐れて売り急ぐときこそ冷静に買い向かう、という逆張りの姿勢を説いた言葉です。群衆の感情と反対に動くことの大切さを、ひと続きの対句で表現しています。

Q2. この名言はいつ語られたものですか?

バフェットは2008年10月、リーマン・ショックの渦中でニューヨーク・タイムズに「Buy American. I Am.」という論説を寄稿しました。市場が総悲観に沈むなか、自ら米国株を買っていると公表した文脈で、この恐怖と貪欲の原則が語られています。

Q3. 暴落のときは何でも買えばいいということですか?

いいえ、それは誤解です。バフェットが買ったのは長期で価値が残ると判断した優良な対象です。恐怖の正体を見極めずに飛びつくのは、ただ群衆を別方向に追いかけているだけ。逆張り=無条件の買い、ではありません。

Q4. 頭ではわかっても、暴落時に買う勇気が出ません。なぜですか?

脳が危険を感じて闘争・逃走反応を起こし、損失を避けようとする本能が働くためです。これはあなたが弱いからではなく、人間として正常な反応です。だからこそ感情ではなく事前のルールで動く仕組みが助けになります。

Q5. 新NISAで積立をしている場合もこの考え方は使えますか?

むしろ積立投資ととても相性がよい考え方です。暴落時こそ同じ金額で多くの口数を買えるため、積立を止めないこと自体が「他人が恐れているときの貪欲」を自動で実践していることになります。